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明治政府は、開拓と北方警備を目的に明治2年(1867)、蝦夷を北海道に改め開拓使(明治19年(1884)より北海道庁)を設置し、この地方を北見国とした。
開拓使黒田清隆は樺太(からふと)をめぐるロシアとの交渉の中でロシア東進政策の脅威を感じ、屯田兵制度を適用した防衛強化策を政府に進言し、政府は明治8年(1873)札幌琴似村に第1陣を入植させた。
明治20年(1885)に着工した旭川から北見を経て網走に至る中央道路(現在の国道39号)が明治24年(1889)に開通したが、この工事には網走監獄の多くの囚人たちが酷使され、別名、囚人道路とも言われている。
北見地域に屯田兵が入植したのは明治30年(1895)と明治31年(1896)で、端野(たんの)200戸、野付牛(のつけうし)198戸、相内(あいのない)199戸が配置された。
また、同じく明治30年には坂本直寛を代表とする北光社(高知県土佐)112戸がクンネップ原野、ムカ原野に北光社農場を開設し、これが屯田兵と相まって北見地方開拓の先駆者となった。
大正元年(1912)国鉄網走線(池田〜北見〜網走/池田〜北見間(ふるさと銀河線)は平成18年(2006)4月20日廃止)の全線開通と名寄線(野付牛〜留辺蘂間)の開通により、交通の利便は急激に当地商工経済界の活性化を促すに至ることになった。
大正4年(1915)、一級町村制の施行により、置戸(おけと)・留辺蘂(るべしべ)の2村を分割し、翌大正5年(1916)野付牛と改め、大正10年(1921)さらに端野・相内の両村を分割、昭和31年(1956)には再び相内を合併し、さらに平成18年3月5日、北見市・端野町・常呂(ところ)町・留辺蘂町が合併し、石北峠からサロマ湖、オホーツク海に至る広大な新「北見市」が誕生した。(面積1,427.56 q)
北海道で一番大きな面積を有する都市であり、香川県の77%に相当し、全国でも第4位の広さである。
また、石北峠からオホーツク海まで東西に延びる道路の距離は、東京から箱根までの距離にあたる約110kmで日本一である。

今日、人口は12万9千人を超え、各種管理機能と農林畜産物、水産物及び商工業を背景とした流通機能が集積し、オホーツク地域最大の中核拠点都市として発展を続けている。