NO53 「ヒンダ」(ミャンマー)
今回、ご紹介するのはかつてミャンマー(旧ビルマ)を支配していたモン族が川や湖に暮らす水鳥を神格化したといわれる霊鳥ヒンダ(Hintha、Hamsaともいう)の星座です。ミャンマーは熱心な仏教国で古い寺院が沢山残っています。寺院の装飾の中には、ミャンマーで使われていた独自の星座の絵が残っています。
 ミャンマーの星座の中で特に重要視されていたのは、北極星の周りの9つの主要星座です。
 9つの内訳はさぎ、カラス、ヒンダ、カニ、天秤、かんざし、漁師、象、馬と当時のミャンマーの人たちには身近であったもので構成されており、ヒンダは現在使われている星座ではぎょしゃ座のエリアにあたります。
 ヒンダはモン族のシンボルであったため、モン族王朝の古都バゴーではヒンダをモデルにした装飾が多く見られます。また、ヒンダをモデルにした分銅は隣国のタイの骨董品店で土産物のお守りとして販売されています。この分銅のモデルはヒンダ以外にも獅子の姿をしたものもありますが、まとめてヒンダと呼ばれているようです。
 
 

NO52 「スフルマーシュ」(メソポタミア
 秋の星座の中で、やぎ座はギリシャ神話の牧畜の神パーンだとされていますが、ギリシャ人たちは神話のお話を作っただけで、この星座の本当のルーツはギリシャではありません。
 やぎ座を最初に創ったのはメソポタミアの人たちで、エアという神が姿を変えたスフルマーシュ(上半身やぎで下半身魚の姿)という空想上の生き物の姿なのです。
 エアは以前にこのコーナーで紹介しましたメソポタミア神話の主神マルドゥーク(ペルセウス座のルーツ)の父親で水と知恵の神でした。エアは対立していた海水の神ティアマト(くじら座のルーツ)と敵対関係になり、あえなく敗れてしまいます。エアの子、マルドゥークは仲間の神々を率いてティアマトと毒蛇、牛人間などの11匹のティアマトの手下を倒しまし神々の王となりました。一説によるとメソポタミアでうまれた黄道12星座の原型はこのティアマトの手下11匹と、エアの化身であるスフルマーシュだといわれていますが、もしこれが、本当であればやぎ座のルーツは黄道星座のルーツと敵同士ということになります。

NO51 「王良」(中国
  カシオペア座の特徴的なW字型は、それぞれの地域でさまざまな見方をされてきました。中国では「王良」という御者の姿に見立てていました。王良は、戦国時代(紀元前400年頃)趙の襄王の御者として使えた実在の人物で、王を補佐した有能な人物であったと言われています。ただ、国の政治を馬を御すことに例えた逸話などが韓非子などで見られるのみで、詳しい事績などは伝わっていません。カシオペアの五つの星のうち、β星が王良で、残りの四星が王良に御される馬とされています。君主(北辰・北極)を補佐すべく、地平下に沈むことなく天馬を駆り続ける名御者の星座です。
 星座といえば、ギリシャ神話のヘラクレス座やアンドロメダ座など、人物の星座が多くある印象があるかもしれませんが、中国の星座ではこの「王良」などわずか四つしかありません。200以上あるうちのわずか四つという少なさは、中国の星座のひとつの特徴といえるでしょう。

NO50 「いゆちゃーぶし」(沖縄)
 沖縄は今でも独特の文化を持っていますが、昔まだ琉球(りゅうきゅう)と呼ばれていた頃は、本土(日本)とは別の風習・文化そして言葉がありました。
 星についても、中国などの影響を受けつつ、琉球オリジナルなものが数多くあります。たとえば「さそり座」のことを琉球では、「いゆちゃーぶし」と呼んでいました。「いゆちゃーぶし」というと日本語とはぜんぜん違う言葉のように感じますが、分解してみると実は似た発音になります。「いゆ」とは魚(うお)、「ちゃー」とは釣り、そして「ぶし」とは星、つまり「魚釣り星」という意味です。「うおつりぼし」と「いゆちゃーぶし」、けっこう似てますよね?
 波(は)照(てる)間島(まじま)では、「さそり座」の独特のカーブを釣り針に見立て、赤ら顔の酒好きおじいさん(アンタレス)が釣り針を天の川に垂れ、ウナギやエビを釣っている姿だと言われています。また、ポリネシア諸島においても同じように、さそりのカーブを釣り針に見立て、ニュージーランド島を釣り上げた釣り針であると見られています。また、日本においても、瀬戸内地方などでは「魚釣り星」「鯛(たい)釣り星」などと呼ばれていました。
 沖縄は緯度が低いので、北極星は低く、南天の星は高く見えます。ですから、本土では地平線低くにしか上らない「さそり座」も、沖縄では空高く上るため、本土で見るよりもこじんまりとして見えます。小さく形の整ったカーブに、「釣り針」という小さな物を当てはめたくなる気持ちも、実際に沖縄から星空を見上げればよくわかりますね。             

NO49 「五星占」 (中国)
1971年、中国は長沙にて「馬王堆」という前漢代(紀元前150年頃)の長沙王の宰相一家の墓が発見されました。女性のミイラが発見されたことで話題になりましたので、そちらで覚えている人もいるかもしれません。しかし、ミイラの発見には及ばないものの、天文学史の研究者のあいだでは非常に重要視される書物が発見されました。それが「五星占」です。
 書物にはタイトルはなく、五惑星を使って行われる占星術について書かれた書物であることから「五星占」というタイトルが付けられました。他に、五惑星の運行の観測記録なども添えられています。
 実は、それまで確かに現存する書物では、淮南子の「天文訓」が、占星術について書かれたもっとも古い時代の書物だったのです。五星占は、それよりも30年以上さかのぼった記録でした。しかもなお驚くべきことに、天文訓であるとか、司馬遷による史記の「天官書」よりも正確な、当時の惑星の運行の記録、及び各惑星の会合周期、公転周期が記されていたのです。これは、当時の西洋の知識をも上回るような精度でした。
 いつ誰がこのような書物を書いたのか、なぜ天文訓や天官書よりも正確な記録が長沙という辺境で発見されたのか、今はまだ何も分かっていません。

NO48 「カエサルのてんびん座」 (ローマ)
今月の古代人からのメッセージは夏の星座のさきがけとして南の空に輝く「てんびん座」のルーツについて紹介いたします。一般に、黄道12星座はいずれも古代メソポタミア地方にその起源を持つと考えれていますが、その中にひとつ不確かな星座があります。それは「てんびん座」です。メソポタミア地方に残る古星図では、現在のてんびん座とさそりの領域を合わせたところに大きなさそりの絵があり、てんびんの領域はさそりの前足の爪の先で独立した星座ではありませんでした。ただこの領域に、当時の秋分点があったことから、「生命に満ち溢れた夏」から「生命が死に絶えていく冬」へ下るポイントとして「ジバニーツ(死の天秤)」と呼ぶ呼び名はあったようですが、主流ではなかったようです。なぜならメソポタミアの星座を継承し、発展させたギリシャではてんびん座は依然としてさそり座の一部で「ケライ(爪)」と呼ばれていたからです。
 この星座が「てんびん座」として独立をしたのは、ユリウス暦の改暦で有名なローマのユリウス・カエサルの時代でした。カエサルはローマ帝国を語る上で欠くことのできない大政治家でした。カエサルはエジプトの女王クレオパトラを愛人としたことからもわかるようにエジプトとかかわりの深い人物で、メソポタミアとは別に古代文明を発展させたエジプトに強い興味を持っていました。このことからエジプトで使われていた太陽暦の優位性を認め、ユリウス暦を完成させたのです。これとほぼ同じ時期、さそり座の爪の先にエジプト古来の星座であった「てんびん座」が独立した星座として使われるようなりました。ちなみに当時のてんびん座は、カエサルが天秤を持つデザインであったようです。
 もしかしたら誕生月の7月を自分の家門名「Julius(ユリウス)」にちなんで「July」と改めさせたように、てんびん座をさそり座から独立させたのもカエサルであったのかもしれません。

NO47 「彗星」 (中国)
 No.47 「彗星」(中国)
 今月の古代人のメッセージは、ニート彗星&リニア彗星の接近で話題となった彗星の語源について紹介します。この彗星については中世にいたるまで西洋と東洋で全く認識が違っていました。東洋ではわが国を含め、天体として認識し、644年ごろ書かれた中国の歴史書「晋書」では、占星術の位置づけについて、「彗星はいわゆる掃(ほうき)星で、本体は星に類し、末端は彗(ほうき)に類す。小さいものは数寸、長いものは天をわたる。現れれば、兵が起こり、大水。掃除を主(つかさど)り、旧きを除き、新しきを布く。」とあります。旧体制を掃除して、新しくするというところはこの天体の外観にピッタリの見方といえます。
 また同様に科学的とみられる記述もあります。「彗体は光がなく、太陽により光るのである。それゆえ、夕方に見れば、尾は東を指し、あさならば西を指す。」というのは、まさに観測結果から見た科学的な真実です。西洋では1532年にティコ・ブラーエが月より遠い天体であると発表するまで、彗星を凶兆と見る見方は同じでも、正式に天体の仲間に入れていなかったのと比べると大きな違いです。これは、西洋では、天体を神聖なものと見すぎて彗星のようなあいまいな形状をしたものを天体の中にいれたくなかったのかもしれません。ちなみに英語の「comet(彗星)」はギリシャ語の「長い髪の毛のようなもの」という意味の言葉からきています。