北見(当時は野付牛)のハッカは明治34年に最初に作付けをされたが、その後急速に栽培が広がり、明治37年の42haから明治43年には約1,000haにまで広がっている。
北見でハッカの栽培が急速に広がった理由としては、自然条件が合っていたこと、他の収穫物と比較して取卸油はコンパクトだったこと(3〜4haで120kg)、10a当たりの収益が他の作物(大豆、小麦)と比較して7倍以上だったということがあげられる。
昭和9年には北聯(ホクレン)薄荷工場が完成し、地元で集荷したハッカを加工できるようになった。昭和10年に完成した工場事務所は、工場の設備100数点とともに北見市に寄贈され、現在「ハッカ記念館」として保存されている。北見薄荷工場のハッカは、「HOKURENブランド」として海外でも高い評価を受け、世界の一流ブランドとして確固たる地位を築いた。昭和14年には工場取扱高で作付面積約20,000ha、取卸油700t以上を生産し、小樽港からアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなどへ輸出された。北見薄荷工場の製品が世界市場の7割を占めたのはまさにこの時期である。
薄荷草を加熱し薄荷油を取り出すための薄荷蒸留釜は、最も古い「天水釜」から「箱せいろ型釜」など改良が重ねられ、昭和6年には北見でハッカ耕作のかたわら蒸留機の研究をしていた田中篠松により、「田中式蒸留釜」が開発された。この蒸留釜は従来の3倍の効率をあげ、燃費の節減、収油能力でも飛躍的に性能を向上させた。この釜はハッカの蒸留だけでなく「しそ」「密柑」の蒸留にも利用され、ハッカ産業界で脚光を浴び、北見の発展に大きく寄与した。昭和8年には「田中式蒸留釜生産組合」も結成され国内はもとより海外からも注文が殺到した。
第二次世界大戦が始まると、輸出が止まりハッカは不急不要作物として減反を強いられ、最盛期の3分の1の作付面積にまで激減した。しかし戦後ハッカは復興へ動き始め、昭和32年には作付面積が10,000haに達し戦後のピークとなった。
しかし、昭和46年にはハッカの貿易自由化が決定され、暫定関税措置を実施した。そして昭和58年にはハッカの関税引き下げが行われ、その年に北見薄荷工場はその幕を下ろした。
北見市には、薄荷工場の事務所を移転・改築した「北見ハッカ記念館」、記念館に隣接する「薄荷蒸溜館」、ハッカの黄金期に薄荷仲買人が建てた邸宅を保存している「ハッカ御殿」、「ハッカ蒸留小屋」などの施設が遺産として残されている。
また、ハッカ関連機器として、北見最古の蒸留釜「天水釜」1機、大正時代初期まで使用されていた「箱セイロ型蒸留釜」1機、北見薄荷の歴史に大きな影響をもたらした「田中式蒸留釜」5機、保存されている蒸留釜としては最も新しい「ボイラー式合理化蒸留機」1機が保存されている。これらの蒸留釜は歴史的にも非常に貴重なものであり、「ハッカの風香るまち北見」を語るうえでも、残さなければならない遺産となっている。
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